中国街角ウォッチ

あのころ・そのとき「~序の舞の…~」

2010.1.25

     序の舞の まこと静けし 足袋きしむ (地朗)

 尼崎の芭蕉さんともいわれた大叔父のこの句碑は、いまも蓬川公園のたもとにたたずんでいる。百余歳で還らぬ人となってすでに20余年になるが、白寿の祝宴で見た舞扇の数々が上海のあの店の思い出につながる。

 80年代はじめの上海。

 わたしはそれまでの中国との輸出入ビジネスから足を洗い、はじまったばかりの対中投資を促進する仕事に切り替えたときのこと、毎月のように何名かの中小企業家を上海に案内していた。いまでは歩行者天国で賑わう南京東路もバスやクルマが行き交い、おのぼりさんの大群が“人山人海”と押し寄せていた。人民広場に面した第一百貨店では自転車やミシンの売場があり、機械工具や部品などまでが並べられていた。

 この店-上海王星記扇庄は、百貨店の新館建設でいまは福州路に移転しているが、大光明鐘表(時計)商店に隣接していた。

 人の出入りも少ない店内をのぞいて見ると、壁面や陳列ケースに古めかしい扇の数々が並んでいる。白紙の扇面も売っており、扇面画もあった。ときおり古い扇子や扇面画を店に売りにくる人もあり、なにか外の雑踏とは切り離された空間であった。わたしはいくつかの扇面画を手にとり、舞扇を買い求めた。

 その後ときおりこの店に立ち寄り、この店が清・光緒元年(一八七五)杭州で創立されたことも知った。解放までの中国の歴史を知り尽くした、由緒深き店であったといえる。

 わたしの仕事に、日中の専門家による上海の古い街並み保存・改造の共同考察プロジェクトのサポートが加わったのは、83年の秋のこと。

 映画「上海家族」は90年代の上海の住宅事情の一端も描き出しているが、80年代は一戸に数世帯が雑居する状況が続いていた。古い歴史的建造物も「文革」で破壊されたまま、修復にまで手が届いていない。共同考察の対象は、前者は旧南市区蓬莱路、後者は郊外の嘉定県城ときまり、日本から大学教授や都市計画の専門家が二年間数度の自費による訪中で共同考察の提言書をまとめ、85年5月上海市人民政府に提出した。

 師走の一日、十数年ぶりに対象地区を訪れた。

 これは“温故知新”、“走馬看花”のおはなしである。

写真は「嘉定古城」

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 上海郊外の嘉定区は、南宋・嘉禎10年(一二一四)に県城が設けられた由来で、その名をいまに継いできている。その中心・城中路にある法華塔は800余年の歴史があり、明代の秋霞圃は名園の誉れが高い。

 県内の馬陸郷人民政府には、80年に大阪府との友好都市提携で実施された農業交流の「大阪・馬陸友好人民公社」の看板がかかっていた。滬嘉高速は上海市内と嘉定を結ぶ中国第一号の高速道路であるが、考察がはじまった83年にはまだその計画すらない。錦江飯店から嘉定まで、クルマは鉄道の踏切で立ちつくし、狭いデコボコ道を自転車の大群が行く手をはばむ。打合せや現地視察をはじめて一時間ほどで昼食となり、3時ごろには夕方のラッシュに巻き込まれぬようにと帰路に着く。県城にはホテルもなく、二度、三度こうした考察を繰り返し、翌年には崩れかけたこの法華塔を修復、県城の四方、東西南北のいずれからでもこの塔が望めるようしようと結論づけた。周辺の建造物は再構築し、古城の商店街を整備する「老街保留区」の改造事業は、その後県人民政府の批准を経て実行されることになった。“嘉定の栄枯盛衰の歴史の証人”である法華塔の再建には、地元住民からも数十万元の寄金があったという。

 上海からの高速道路は拡幅・延伸されて、いまは江蘇省の太倉に達し、市内(長風公園)からの地下鉄11号(申嘉線)は年内開通の、駅舎の整備に追われていた。

 老街の商店街も歩行者天国となり、明・清代風に改築された商店には若者向きの商品も多くとり揃えられている。90年代には何度か宿泊したことのある招待所も小奇麗に改装され、庭からクリークの小橋を渡って、元小学校跡の緑地公園へと繋がっていた。

 法華塔はいまでは城内のいたるところから見通され、そこには小さな郷土史料館も設けられている。こうして共同考察の提言が見事に施行され、さらに孔子廟に至る周辺の道や商店の改造もプラスして整備されていた。

 地元では水路にもさらに手を入れて、内外の観光客を呼び寄せたい意向と耳にするが、昆山の周庄や朱家角などの水郷に比べるとクリークが小さい。むしろその歴史遺産を前面に押し出したほうがいいのではと思えた。

 嘉定区には中国最大の“汽車城(自動車工業団地)”があり、F-1サーキットもある。もう農村ではない。馬陸鎮人民政府にかかっていた看板も「大阪・上海友好鎮」となっていた。

 オールドシャンハイの老西門にさしかかると、周辺の商店街はむかしのままである。タクシーの運転手は、地権者が複雑に絡まりあっていて立ち退きが進んでいないようと話すが、はたしてどうか。

 「上海文廟」はきれいになっていた。写真は「上海文廟」

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 窓口で年を聞かれて、シニア料金にしてもらった。廟内の参観者はわたしひとり。あのときは入口から大成門までの広場に古本を並べた“古書市”が開催されて大変な人出であったのだが…。奥に進むと孔子像があり、大成殿があった。さらに右手に二区画の建物群があり、池塘もある。塀の彼方に高層ビルの林立が聳え見えしている。

 ヒマをもてあましていた売店のおばさんに“古書市”のことを尋ねる。いまでも毎日曜日開催しているとのこと。8時かららしいが、7時に来るといい、と親指を立てる。何か掘り出し物でも見つかるのだろうか。

 蓬莱路の表通りはむかしのままであった。写真は「蓬莱路の一角」

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 何枚か写真を撮ったが、はじめての考察のとき、専門家が魚眼レンズで撮影していたとき住民に取り囲まれ、詰問されたことを思い出し、それきりにする。石庫門住宅の見学も、予告なしの今回は遠慮することにした。

 この地区の改造計画は、85年末に上海市人民政府で批准されたが、居住条件の改造のみが地元予算で先行実施となり、外資による副都心としての商業施設の改造は見送られた。

 90年代に入って証券市場が開設されると、豫園商場が上場されてその改造が進み、今日の姿に大変貌を遂げた。その後区内の古い住宅の立替には外資も導入され、高層化が進んでいく。南浦大橋の建設やその周辺整備も同区の関連部門が管理・監督したと聞く。そして今世紀のはじめ、南市区は黄浦区と合併してその名は消えた。

 ことのついでにと、日系合弁第一号の工場があった元上海県虹橋郷呉中路に出かけた。03年に通りかかったときは、周辺の高層マンションから取り残されたように工場の建物はまだ残っていたが、いまでは道路はさらに拡幅・整備されて高層の建物が連なっていた。ここは外交機関や貿易センターなどが立ち並ぶ古北新区のはずれにあり、上海でも地価の一番高い地区になっている。この合弁企業は10年の契約期限終了後清算されて台湾企業が買取り、さらに元従業員が取得して民営企業になったと耳にするが、いまはどこへ行ったのであろうか。

 ときは移り、まちは変わる。

 上海王星記扇庄のあった南京東路は、むかし“ターマールー(大馬路)”と呼ばれ、移転先の福州路はスマルー(四馬路)であった。ユメノ スマルか…は、いま上海一の文化用品街になっている。

 変わるものもあり、変わらぬものもある、いまの上海。

    風をあるいてきて新酒いつぱい(山頭火)

(2009年12月17日記)

 執筆者・はらだ おさむ(原田 修)  

 【執筆者略歴】   大阪外大仏語科卒業(1957)後、中国ビジネスに取り組むこと半世紀。前半の25年は輸出入、委託加工、「大中国展」催事(主宰)など。後半の25年は対中投資、進出企業の経営管理などのアドバイザー。初訪中(1964)のあと200余回の訪中&中国を周辺諸国から観察の旅。会社役員、団体役員を歴任。数年来「市民講座」などの常連講師のほか、『中国ビジネスえとせとら』、『徒然中国』を業界紙などに連載・送信中。

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