中国街角ウォッチ

あのころ・そのとき「~「飛躍」のみちのかたわらで・・・~」

2010.10.26

~「飛躍」のみちのかたわらで・・・~

 二回目の上海万博参観は、中秋節三連休の中日であった。

 EゾーンからDゾーンへ向かうバスの車内電子ボードに、3時現在で入場者数は60万人を越えたとの告知が流れた。道理でどこも混むはずだと思ったが、帰国時見送りの上海の友人によると、当日の最終入場者数は六十三万一千二百人であったとか。皆さんのご来訪のおかげで新記録が達成されましたと祝福?されたが、まだ国慶節の休暇があるでしょうと問い直すと、長い休暇は海外や地方へ旅行する人も多く、また重要なイベントが続くので入場制限もあるよし。この入場者数は万博史上はじめての大記録、永遠にこの日は記憶されるでしょうとまでおだてられると何か大仕事をしたような錯覚におちいったが、汗だくで人・人・人の群れにもまれ、最後は日本産業館の裏口の芝生に寝転んで、たこ焼きを口にしながら、約束の時間に一時間半ほど遅れている中国館入場組の他のメンバーの到着を待ちわびていた。

 釣瓶落としの秋の陽は早やくも暮れようとしている。

 今回は上海都市研究会の会員を中核に、友達や知人が連なって一行19名の「上海万博と杭州・烏鎮のたび」のツアー。触れ込みは<古きを訪ねて、新しきを知る>とあって、上海ではオールドシャンハイを取り囲んでいた古城壁からスタート、老西門、文廟、蓬来路をめぐって豫園へ。福州路/江西中路の新城飯店(メトロポール・ホテル)は1930年代のアールデコ建築。六月に宿泊して水回りなどもチェックしているが、数年前に改修を終え問題はない。何よりも嬉しいのはバンドまで徒歩数分、歩行者天国の南京東路まで十分のロケーションの良さ。旅装を解き、小憩後、石庫門住宅を解体・再構成して造られた、上海のナイトライフを彩る「上海新天地」へ。「中共一大会趾」は国の重要文化財として保存されている典型的な石庫門建造物である。

 ナイトライフの仕上げはやはりバンドのキャプテンバー。バックパックの青年達や様々な人種の男女が、この屋上庭園で浦東のテレビ塔や「101」の眺望をサカナに酒盃を重ねている。

 杭州湾海上大橋(約36キロ・世界第二位)で慈恵経由杭州へ向かう。

 九十年代の後半に寧波周辺へ出かけるとこの話でもちきりであった。調査に十年の歳月をかけ、総投資額の30%は寧波周辺の私企業が負担するという画期的なプロジェクト。それほどに寧波から上海への物流の、時間とコストの短縮を願う企業家の実現への思いは強かった。04年6月着工、08年5月には開通している。最低速度60キロ、最高速度百キロの、はじめは産業高速道路であったが、いまでは上海―寧波の定期バスも運行され、利用度が高まっている。

 杭州のホテルは花港海航度假酒店(4星)であった。

 花港公園まで徒歩数分とロケーションは良いが、90年代の建造物はやっつけ仕事の粗製濫造が多く、戸の開閉にがたつきがあり、水回りも悪い。全館調整の室温は22度、シャワーも30度前後とあって、温度管理はおそらく夏のままなのであろう。概してこういうホテルでは暖房は11月1日からと外気と無関係に汗ばむような室温にしているのかもしれない、いやそのころは利用者がなく、開店休業になっているかも。ことはこのホテルに限るまい、九十年代は安かろう、悪かろうのメイドインチャイナが国際市場を跋扈していたのである。

 杭州の現地ガイドは余杭の江南水郷博物館まで。

 かれは台州出身で自宅は飛躍ミシンの隣というので、よくよく聞くと50キロほど離れているとか。中国の人の距離感は概してこんなところだが、父親は農民だが昔は靴の修理機械の部品の組み立てを内職でしていたこともあるらしい。靴の修理といえば、いま中国のミシン王と称される邱継宝もその仕事のスタートは靴の修理であった。台州は台湾に面しており、冷戦時代は戦争に備えて大企業は全て奥地に疎開、台州には農業以外これといった産業は存在していなかった。改革開放を迎えても邱継宝の働く場所はない、かれは靴の修理道具を引っさげて東北に向かうが、温暖な台州の出身者に東北の冬は厳しく、アカギレだらけの手になって帰ってきた。当時はまだ家庭用ミシンは花嫁の三種の神器、作れば飛ぶように売れた時代。彼も見よう見まねにミシン製造へと足を突っ込む。南京の展示会場の門前で自作のミシンを路上に並べたが、見向く人もなく、広州の交易会場で外国のミシンを見たくても入場券が手に入らず、塀を乗り越えて逮捕されたこともある。失敗は成功の元、安さで販路を開拓、機内でスペイン語を独習しながら中南米へも足を延ばす。

 わたしは90年代の半ば、上海から温州経由で三日目に台州の彼の工場に行ったことがある。“飛躍”ブランドのミシンを発売してから10年目くらいのときであった。すでに大きな工場が立ち並んでいて、日本のOB技術者が顧問に迎えられていた。若い大卒の技術者も採用されていたが、実務はわからない。まさに率先垂範の技術指導がなされたようだ。その夜地元党幹部の招宴で邱継宝の苦労話を聴きながら、かれが党幹部にしきりと盃を捧げる姿を垣間見た。

 02年かれは中国共産党に入党、“三つの代表”の流れのなか、浙江省の人民代表に選出され、中国縫製機械協会(旧中国ミシン協会)の理事にもなる。04年には温家宝総理も工場を視察、「中国ミシン王」「中国民営企業王」の称号が定着する。家庭用ミシンの市場は中国国内でも下降線を辿るが、「発展途上国」向け輸出と刺繍ミシンの開発でさらなる業績の拡大を図る。08年、拡大路線は財政危機に直面、地元政府の指導による「新飛躍集団」が地元国有資産運営会社他七社で形成・組織され、「飛躍」は二位の出資比率、邱継宝は董事長であるが、「オーナー経営者の座を譲った」(『第一財経日報』09年10月9日)。縫製機械協会では筆頭副理事長としていまも名を列ねている。

 江南の水郷の街―烏鎮は二度目の訪問だが、宿泊するのははじめて。旅行社から“民泊”と聞いていたが、08年開業の「黄金水岸大酒店」(5星申請中)であった。杭州のホテルで文句タラタラのメンバーもやっと一息ついた表情。

 古鎮見学は、万博帰りの中国人観光客であふれていたが、昼食時間のタイムラグがあり、わたしたちが小船に分乗して運河めぐりをするころには喧騒も少し収まってきていた。

 夕食後同行二人とホテルの一室で足裏マッサージをした。

 19歳の乙女二人、洛陽郊外の農村出身。中卒後、半年の研修・実務訓練を経て、他の職場からこのホテルに配属されたのは三ヶ月前とか。こんばんは、の日本語も知らない。“バッキャロー”は日本語かと聞く。テレビでよく耳にしたと。この世代の「愛国=反日教育」の深さを思い知る。このツケは、これからどうなることだろうか?

 翌朝チェックアウト前に机上で「黄金水岸・創刊号(内部資料)」を見つけ、拾い読みをした。内部資料とあるが、「酒店大事記」「重要接待集錦(写真)」があり、董事長の「創刊詞」がある。一種のPR誌だろうが、董事長は郭水尭、民営企業―尭舜置地企業の代表でもある由。自分の一字を入れ尭舜禹の中国の創始に思いを馳せる地元デイベロッパーか。顔写真はまだ三十代半ばくらい、すでに「上海緑地公寓」「桐郷石門商貿広場」「黄山楓林麗景別墅」などを開発、目下「黄山休養新城(尭舜科技城)」の建設中とのことだが、帰国後インターネットで調べてもこれ以上の情報はなかった。

 上海万博は、間もなく閉幕する。

 いろんな角度からの総括がこれからなされることだろうが、わたしは奥地からはじめて上海に来て万博参観後南京東路の歩行者天国を文字通り「人山人海」と埋め尽くし、疲れ果ててバンドのビルの日陰で座り、寝込んでいた「老百姓」たちのこれからに思いを馳せる。40年前の大阪万博のときも、日本の津々浦々からはじめて大都会の大阪に足を運び、そのあと一皮むけた人々の行動が、日本経済の高揚に繋がったことを思い出す。今年GDP世界第二位となる中国の改革開放30余年の歩みを振り返るとき、邱継宝の刻苦奮闘の私営企業のあゆみもいまではもっとスマートに運営され、中国の奥地にもその萌芽を見出すことができるであろう。

 「バッキャロー」の少女達も、きれいな日本語を身につけてくれることを期待したいものである。

執筆者・はらだ おさむ(原田 修)

【執筆者略歴】
 大阪外大仏語科卒業(1957)後、中国ビジネスに取り組むこと半世紀。前半の25年は輸出入、委託加工、「大中国展」催事(主宰)など。後半の25年は対中投資、進出企業の経営管理などのアドバイザー。初訪中(1964)のあと200余回の訪中&中国を周辺諸国から観察の旅。会社役員、団体役員を歴任。数年来「市民講座」などの常連講師のほか、『中国ビジネスえとせとら』、『徒然中国』を業界紙などに連載・送信中。

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