中国街角ウォッチ

あのころ・そのとき「~青い空と赤レンガの壁~」

2010.11.24

 ~青い空と赤レンガの壁~

 会期を一週間残した10月24日の午前10時30分(上海時間)、コンピューターの当時点での当日累計が36・47万人と告示したその瞬間、上海万博の入場者総数は目標の七千万人を突破した。

 はじめチョロチョロの出足であったが、月を追うごとに入場者数はうなぎのぼり、10月16日には一日の入場者が百万人を越えて40年前の大阪万博の入場者総数(六千四百万人)をクリアし、目標の達成は時間の問題と見られていた。

 日本の人口の二人にひとりが参加したことになる大阪万博のころと比べて、いまは情報過多ともいえる当節。上海万博の公式ホームページを開くと各パビリオンを居ながらにして参観出来、その上「オンライン万博」にアクセスするとその最新情報が入手できる。40年前の、携帯電話もない「大阪万博」の時代とは雲泥の差。暑いさなか、人ごみの中を何時間も並んでと屋内でパソコンを見つめていた人には不思議な行動とも思えたことだろが、その数、七千万人。わたしも大阪から二回上海に飛んで、三回会場の人のうねりに身を投じた。

 10月のはじめ、大阪で<「活古創新」の上海万博>と題してお話した。 「古きを活かして、新しきを創る」、これは「オンライン万博」ではつかめないわたしの万博感想記である。

 上海万博は84年の堺屋太一さんなど長銀(当時)グループの、汪道涵上海市長(当時)への提言を嚆矢とする。「この構想は人を興奮させる」と受けとめた市長の指示で、「上海万博小組」が組織され、十余年の紆余曲折のあと、99年に立候補、02年12月の四回目の決選投票で今回の「上海万博」開催が決定した。立候補までの十余年、会場予定地は二転三転したが、黄浦江を挟む両地区が会場開催地に決まったとき、それは当事者にとっては永年の夢を実現するチャンスの到来であった。

 両会場は旧南市区(いまは黄浦区に統合)、浦西会場側には江南造船所と関連の中小企業が密集、浦東側には人口密集の南市区からあふれた住民の分区(移転を促進する「都会戸籍」地区)があった。92年には両地区に架かる南浦大橋は竣工していたが、豫園を含めたオールドシャンハイの街道を修復・保存しながら、この地区の整備・開発が愁眉の課題であった。

 02年の開催決定は、上海市民とっても「好消息」であったが、その裏方の「小組」にとっては「金メダル」を手にしたに等しい瞬間であった。

 開幕までの課題はいろいろあっただろうが、わたしはアクセスと環境保全に最大の努力が傾注されたのではと考えている。

 会場建設費の15倍の三千億元がインフラ・アクセスの整備に投ぜられ、僅か6年間で地下鉄は十路線を新規開通して、その路線距離はすでにニュ-ヨーク、ロンドンを凌駕して世界一、南浦大橋と盧浦大橋の間には三本の隧道を貫通、その一本は両会場を結ぶバスの地下道となり、地下鉄も新線を開通させて両会場を繋いでいる。

 バンドの公園も高架の緑地帯となって十六舗埠頭まで続き、浦西会場の外縁を走る中山二路の住宅地は緑で覆われている。浦東会場には三つの異なる公園が黄浦江沿いに設けられ、そのスペースは会場総面積の15%の緑化地帯となっている。

 浦西会場の元江南造船所の構築物は、堺屋太一さん主宰の日本産業館のほかそのほとんどがパビリオンに活用されている。これらの建物は李鴻章の時代からの江南造船所の歴史を伝えるものであり、すでに万博閉幕後も資料館ほかの活用・保存が決まっているといわれている。

 「万博小組」や関係者にとっては、「開幕はすでに金(きん)」であった。

 9月23日、入場待機の小一時間は小雨模様であったが、フェリーで浦西会場に着いたころには薄日が差し込みはじめていた。 Eゾーン南端の、おそらくは元火力発電所の煙突のある建物(都市の未来館)が目についたが、ここでも長蛇の列が続いていた。

 ベンチでホテルのバイキングで戴いてきたパンなどをほおばり、午後からの作戦会議。

 Eゾーンの実験都市案聯合館(中部)には、大阪や香港、台北ほかの諸都市のパビリオンが三棟あった。この建物、おそらく三階以上の高層の外壁のすべてが赤レンガで覆われ、それらのすべてに手づくりの装飾が刻み込まれていた。

 帰国後、「上海市実用地図冊」などでみると、解放後は江南造船所のモーター部門?の、上海電力修造総厰に使用されたのではないかと思われるが、この由緒ありげな赤レンガの壁はさらにその昔の歴史の物語を話しかけてくるような気がする。

 さらにエコバス(無料)に乗り込んで、Dゾーンに向かう。

 気のせいか、6月の時に比べて乗降のマナーも洗練されてきたか(席を譲ってもらったせいもある)。車内の電子ボードが3時現在の入場者数が60万人をこえたと告げる。終点で下車、記念品売り場を覗くが、6月に比べてかなり品種が減り、同じ品(売れ残り?)が山積みされている。

 日本産業館裏の芝生に横たわり、ふと、空の青さに気づいた。

 自宅周辺を散歩するときに目にする、あの、空の青さと、同じ空が、芝生の先の、会場外の住宅の先に広がっていた。

  上海で、はじめて見た、空の青さであった。

 64年の春に、はじめて見た上海の空は、どんよりと曇っていたが、それからの半世紀、上海はいつもかすみたなびき、曇り、どんよりとした空しか見せてくれなかった。

 80年代の半ば、大阪の大気汚染発見・発信機のメーカーが、つぎの市場開拓にと上海を訪問したときのこと。当時上海の環境関係者は当面の仕事は病院付近などの騒音対策のみと語り、時期尚早かと帰路ガーデンブリッジを渡りかけたとき、その悪臭と川の汚染に驚き、上海の関係者に汚水の発生源は大気よりも簡単に捕捉できる、大気よりも先ずこの川の汚染対策をと迫ったことがある。それから、20数年が経ち、蘇州河も黄浦江もこの数年、ようやく汚染から解き放たれたようだ。

 空は、どうか。

 昨年の春、上海市気象局はスモッグによる視界不良現象が、WHOの世界基準の10倍、平均2~3日に一度発生している現状を、万博期間中は「青空の日」を95%程度まで高めたいと、その抱負を述べた(「レコードチャイナ」)。

 上海常住者でないわたしに、その成果のほどは確かめようがないが、この日わたしが目にした空の青さは、ホンモノであった。

 上海万博の立候補から、会場の整備、アクセス・インフラの拡充、そして、それを取り仕切ったのは上海市人民政府であり、それを具現化したのはその構成メンバーである専門家集団-テクノクラートたちであった。それはまさに、上海万博のスローガン「ベターシティ ベターライフ」、つまり主語のベターシティが市民にベターライフを提供する構図である。

 日本では、そうでなかった。

 市民が環境汚染から身を守るために立ち上がり、メディアや専門家集団と手を取り合って、企業や政府を追い詰め、いまの魚が遡上する河川を取りもどし、深呼吸のできる青い空、すがすがしい大気を取り戻した。

 上海万博でみた「赤レンガの壁」と「青い空」は、上海の明日を、ベターライフを創り出してくれることを予感する。

 この上海万博で繰り広げられた平和な、友好の輪が閉幕後も一層大きく広がることを期待したい。

執筆者・はらだ おさむ(原田 修)   

   【執筆者略歴】
 大阪外大仏語科卒業(1957)後、中国ビジネスに取り組むこと半世紀。前半の25年は輸出入、委託加工、「大中国展」催事(主宰)など。後半の25年は対中投資、進出企業の経営管理などのアドバイザー。初訪中(1964)のあと200余回の訪中&中国を周辺諸国から観察の旅。会社役員、団体役員を歴任。数年来「市民講座」などの常連講師のほか、『中国ビジネスえとせとら』、『徒然中国』を業界紙などに連載・送信中。

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