中国街角ウォッチ

あのころ・そのとき「~老百姓(ラオパイシン) 老朋友(ラオポンヨウ)~」

2011.11.24

 二年ほど前 ある読書会で『日本中世の百姓と職能民』(網野善彦著・平凡社ライブラリー)を輪読した。難解な表現が多く、わたしが理解できたことはただひとつ、「百姓=農民」という概念の固定化は明治になってからであって、中世では「『百姓』の語は、一貫してその本来の語義―さまざまな多くの姓をもつふつうの人という意味で使用されていた」(本書P9)ということであった。網野さんは史実に基づいて著述されているのでその語源的説明はないが、それはおそらく中国語に起因するものであろう。いまでも中国語で“百姓(パイシン)”は、庶民~平民を指す言葉である。つまり、百の姓(かばね)を持つ人々ということになる。

 「人民」と「平民」または「庶民」とどう違うのか、わたしには説明しがたいが、学生のころからわたしは毛沢東の「人民、人民こそが世界の歴史を創る原動力である」という言葉に愛着を感じていた。

 「歴史を創る」、いい言葉ではないか。

 わたしは一九五七年に日中ビジネスに参画し、六四年にはじめて“竹のカーテン”-国交未回復の中国に香港経由で渡航した。北京で仕事を終え、帰路上海に立ち寄ったとき、“公私合営”で南京路の商店街はさびれていた。足を延ばして、むかし日本人が多く住んでいたという虹口の路地を歩いていたとき、老婆がいきなりわたしに唾を吐きかけて、なにか叫んだ。わたしが日本人の看板を背負って歩いていたわけではないが、老婆に何かいやなことを思い出させたのであろう。わたしは足早に立ち去った。

 一九七〇年は大阪万博の年である。

 まだ中国とは国交が正常化されていない。

 万博の出展は、「中華民国」であった。

 わたしたちは、中国との国交正常化を求めていろんな活動をしていた。

 百貨店などの「大中国展」は、「中国を知り、知らせる」一つのデモンストレーションであったが、関係団体などは関西財界筋などにも働きかけ、ひとつの国民運動となってきていた。

 七二年九月二九日のあのとき、百貨店の大中国展の会場でクス球が割れ、“祝 日中国交正常化”の垂れ幕が下がったとき、そうだ、わたしたちは「歴史を創った」のだと胸を熱くした。

 九二年は鄧小平の「南巡講話」で中国が改革開放に向けて本格的に動き出した年であり、天皇訪中が実現した年である。わたしはこれで日中間の「過去」にピリオドを打ち、未来志向の両国関係が構築されるものと期待したが、「愛国教育」が立ちはだかる。

 二〇〇〇年の秋、日中友好協会設立五十周年記念の交流会が北京で開催されたとき、わたしは盧溝橋近くの「愛国教育基地」を参観して、唖然とした。そこに展示してあるさまざまな事跡に苦情を申し述べるのではない。日本人として過去の歴史的事実に向き合い、二度とこのようなことは繰り返してはならないと思う。しかし、そのとき参観に来ていた低学年の小学生たちが「七三一部隊」の“生体実験”の、カリカチュアルな模型にたわむれ、興じる姿を見て、慄然とした。この子たちの「日本観」がこれからどうなるのか、わたしは随行の北京市のひとにその懸念を述べたのであった(後日その展示は撤去されたと耳にする)。

 〇五年は「反日」が燃え上がった年だ。

 わたしたちの九賽溝ツアーは参加者が半減し、地元のガイドは「ヨーカ堂」でのショッピングを危惧したが、わたしたちは熱烈歓迎!を受けた。昼食後、雨上がりの公園を散策しているとどこからか楽器の音が聞こえる。のぞいてみると、中高年の人たちの集いであった。かれらはわたしたちを見かけると、突然、九ちゃんのあのうた♪幸せなら手をたたこう・・・を奏ではじめたのである。日本人と知っての、即興の「熱烈歓迎」であった。わたしたちも手をたたき、足を踏み鳴らしたのはいうまでもない。

 その秋、雨の降りつのる上海の浦東で立往生していたわたしに一台の空車が近寄ってきて、途中私用でちょっと寄り道するがよかったらどうぞとドアを開けてくれた。上海郊外の松江出身の運転手、上海に仕事に来て数年になるそうだが、松江の日系企業のことなどを語り合ううちに、かれは突然真剣な面持ちで聞いてきた。「お客さん、中国はホントに日本と戦争をするのだろうか」と。

 中国ではマスコミ情報を信用するのは30%くらいといわれているが、かれはそのまじめな「老百姓(ラオパイシン)」であるのかもしれない。わたしは日本と中国が戦争をすることは絶対にない、と言い切った。かれは、そうだよな、松江で働いている日本人も、タクシーに乗る日本人もいい人ばかりだからな、とつぶやいた。

 先日 湯上りにテレビをつけたら、NHKの「爆問学問」をやっていた。

 登場は中国でいま一番有名な日本人・加藤嘉一さんとか。27歳の青年であったが、わたしは初耳。「爆笑問題」の太田“総理”がどう切り込むのかと見ていると、まったくやられっぱなしである。話の筋が通っている。「暇人」の話は、ウン、そうかい、とはいえなかったが、納得、納得で30分はあっという間に過ぎた。

 翌日近在のショッピングモールの書店で、「加藤嘉一」で検索して探してもらって手にしたのが『われ日本海の橋とならん~内から見た中国、外から見た日本―そして世界』(ダイヤモンド社)である。<反日デモとは「反・自分デモ」である><チャイナリスクとジャパンリスクの関係>など鋭い指摘がある。

 筆者は高卒後北京大学に国費留学、〇五年の「反日」デモの現場視察の感想を香港フェニックステレビとの対談で語り、爾来その率直な、媚びない語り口で数多くの本(中国語)を出している。いまの肩書きは、英フィナンシャルタイムズ中国語版コラムニスト、北京大学研究員、慶応義塾大学SFC研究所上席研究員と同上香港フェニックステレビコメンテーターとある(同書プロフィール)。かれのブログは三年で数千万アクセスに達し、胡錦涛国家主席も目を通しているとのこと。

 この数字は小さいものではないが、単純に計算すると中国の五億の「網民」の十人に一人が三年に一度かれのブログにアクセスしたということになる。

 これと比較対照してチェックできる数字ではないが、『国際貿易と投資』の〇八年上期の統計によると在中国の日系企業数は五万余社となっている(71号)。ここからはまったく勝手な数字の羅列になるが、一社平均の従業員数を仮に二百人とするとその総数は一千万人となり、家族数を平均三人と見ると、実に三千万人のひとが日系企業に関係してくる。これは加藤嘉一さんのブログのアクセス数以上に注目しなければならない数字であろう。さらに日本人が一企業に平均五人常駐しているとみると、二十数万人の日本人が三千万人の「老百姓」と日常的に交流しているという勘定になる。ふだんは話題にもならないこの数字をどうとらえるか。

 別の角度から見よう。

 いま在日の中国人は数十万人に達するといわれている。

 この人たちが日常的に接触している日本人をひとり平均十人とすると数百万人となる。こうして見てみると、中国と日本のそれぞれ名も知られない「老百姓」たちの交流がいかに大切であるか、おわかりいただけることであろう。

 日本人は文句タラタラであるが、それでもマスコミ情報の70%を信用しているといわれている。加藤さんも日本のメディアを利用して、中国情報をどんどん流してほしい。しかし、繰り返すが「老百姓」の日常の交流がより大事であり、その付き合いが「老朋友」の関係になったとき、お互いの国同士の関係がゆるぎなきものになることと信じたい。

 「われ日本海の橋とならん」加藤さん がんばれ、「老百姓」がんばれ!

 (原田 修)   

             【執筆者略歴】
 大阪外大仏語科卒業(1957)後、中国ビジネスに取り組むこと半世紀。前半の25年は輸出入、委託加工、「大中国展」催事(主宰)など。後半の25年は対中投資、進出企業の経営管理などのアドバイザー。初訪中(1964)のあと200余回の訪中&中国を周辺諸国から観察の旅。会社役員、団体役員を歴任。数年来「市民講座」などの常連講師のほか、『中国ビジネスえとせとら』、『徒然中国』を業界紙などに連載・送信中。

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