中国面面観

あのころ・そのとき「~ニホンメシヤ・事始め ~」

2012.08.06

 先日 十余年ぶりに夜の王府井(ワン・フーチン)を歩いて、その変貌ぶりに感嘆した。そして、そのむかし、この街の裏筋に“ニホンメシヤ”の原点たる「和風」があったことを思い出した。

 初訪中時の北京の宿は、いまも崇文門にある新僑飯店(当時は3星級)であった。そのころ、ここには日本の新聞社、商社の駐在員やわたしのような短期滞在者が3~40名宿泊していた。まだ国交正常化の8年前のこと、“専家”といわれる技術者などをふくめても、北京在住の日本人はそれほど多くはなかった。

 とても採算ベースに乗りそうもない当時の北京で、なぜ日本料理「和風」が開店していたのか。

 なんでも、“民間大使”として北京に滞在中の西園寺さんと中国の対日窓口を務められた廖承志さんの肝いりによるらしい。

 前年の秋、北京ではじめて開催された「日本工業展覧会」の団員用に設けられた“日本食堂”の什器備品を、閉会後譲り受け、日本のコックさんの技術指導で開店にこぎつけたものという。

 わたしはこのとき、2月なかばから二ヶ月ほど北京に滞在して、上海(商談)、広州(交易会)経由で帰国した。いま当時の訪中記『中国 見たまま聞いたまま』を本棚の隅から探し出してみると、“お茶漬けの味”と題して「和風」のことも書いている。

 酒、醤油からタクアンにいたるまで、すべて輸入品であったらしい。

 「畳敷小部屋数室のほか、椅子席もあり、スキヤキからエビ天、お寿司はもちろん、チキンライスからカレーまでそのレパートリーはひろい」と記している。

 わたしはどうも週一のペースで通いつめていたらしいが、どなたとご一緒であったのか、記憶が定かでない。帰国前に、お世話になった公司の方々数名をご招待してスキヤキパーティをしたことは覚えている。このときは知人に電話予約(中国語)の特訓を受けて申込み、それでも心配になって当日は半時間ほど前に「和風」に出かけていた。

 料理ごとの採点も記している。

 「ステーキ50点、カシワの水ダキ80点~70点(日によりバラツキ)、刺身50点(努力賞)、酢のもの70点、海老天90点、スシは巻70点は甘いか、ニギリは努力賞50点、赤ダシ80点、ヒネタクアンは輸入もので100点」という次第で、わたしの定番は「タクアンに赤ダシ、ときには海老天プラスのお茶漬け」となっていたようだ。

 それから20年後の上海。

 わたしは貿易の仕事をやめ、対中投資推進の団体に関与して毎月のように上海に出かけていた。そのころ上海の常住日本人は、数十名くらいであったろうか。銀行や商社も駐在員は1~2名くらいの規模であったが、国交も正常化して10余年、出張ベースのビジネスマンや旅行者、留学生もふえてきていた。

 日本料理店は虹橋空港近くのホテルにひとつあったが、市内から離れており、常住者にとっては値段的にも“ハレ”用のものであった。

 上海当局からの要望もあって、友好団体の引き受けで“日本料理研修生”が大阪の料理学校で研鑽に励み、さらにアフターフォローもあって上海で「日本料理店」がオープンした。市内目抜き通りのホテルの一角、立地条件は抜群であったが、駐在員によると日本の板さんたちが帰ると、容れものは日本だが中味は中華料理と不評、間もなく“開店休業”とあいなった由。

 そんなあるとき、友好団体の役員から大阪のさる日本料理店の上海出店の斡旋を依頼された。江沢民市長の時代であった。当時上海への企業進出は製造業に限定されていた。日本料理なんて、トンでもない話、と一言のもとに突き返された。雌伏二年、トップが替わって朱ヨウ基市長の登壇とあいなった。上が替われば政策も変わる?と勇んでネゴを開始した。スンナリと話が前に動いたわけでもなかったが、朱市長の“ひとつのハンコ”政策をたよりに“頂上作戦”の結果、既存のホテル内での合作経営なら可能性ありとの感触を得た。

 88年の秋、大阪の日本料理店の社長や幹部と上海市旅游局傘下のホテルをいくつか見て廻り、市中心部ホテルの23Fの1/2スペース・中華料理店「望海楼」のあとに出店を決めた。その契約締結までにもいろいろと問題はあったが、1Fにカラオケ店“雲雀”も併営することになり、89年3月やっと調印にこぎつけたのであった。

 「望海楼」は、海につながる黄浦江が望めると80年代のはじめまではそれが売りのレストランで、“トップオブ・シャンハイ”の異名もあったが、周辺に高層ビルが増え、客足が遠のいていた。日本側は“トップオブ・オオサカ”、よろしま、日本料理の“トップオブ・シャンハイ”にシマヒョじゃないかとサインしたのであるが・・・。

 89年5月、改装を任された大阪の某百貨店建装部の担当者が上海に赴任して間もなくあの事件が発生、7月社長からどうしまひょ、と相談を受けた。話をはじめてから三年、社長、ここでやめたら、トップオブ・オオサカが泣きますでぇ~と口説いた。よっしゃ、わしもオトコや、やるでぇ~、やりまひょ・・・。

 90年1月、カラオケ雲雀で開かれたオープニングセレモニーで♪いい日 旅立ち♪を合唱して、開店。トウ小平の「南巡講話」の進軍ラッパが鳴り響く92年まで赤字累積の日が続く。

 ヒマなときにはと大阪から仲居さんたちが交代で上海へ来て、女の子たちの着付けから接客の対応などを教え、日本で半年以上研修した中国人調理師をさらに日本の一級調理師がオンザトレイニングすること数年、95年までに累積赤字を解消した。

 客席は、十数人は入る掘りごたつタイプの座敷が二部屋、衝立などで仕切られた四人掛けのテーブル席も十有余と総収容数は八十名になんなんとするが、いまから見ると小部屋もあれば利用頻度が増えるのかもしれない。

 開店からすでに二十余年がすぎた。

 日本人総経理が亡くなり、中国人の一級調理師が経営のあとを引き継いで頑張っている。日本で焼き上げて持ってきた舞妓の陶板画も広間に飾られ、空調やスプリンクラーも、そのままであるとか。

 わたしは上海へ行くと、よくこの店をのぞく。

 日本の友人から義理堅いなぁといわれ、滞在が短いので新しい馴染み先をつくる時間がないよと言い繕うが、本心はどうであろうか、やはり生んだ子の成長を見続けたいのであろうことよと・・・。

(原田 修)

【執筆者略歴】
大阪外大仏語科卒業(1957)後、中国ビジネスに取り組むこと半世紀。前半の25年は輸出入、委託加工、「大中国展」催事(主宰)など。後半の25年は対中投資、進出企業の経営管理などのアドバイザー。初訪中(1964)のあと200余回の訪中&中国を周辺諸国から観察の旅。会社役員、団体役員を歴任。数年来「市民講座」などの常連講師のほか、『中国ビジネスえとせとら』、『徒然中国』を業界紙などに連載・送信中。

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