中国面面観

あのころ・そのとき「~青空がみえない街~」

2013.02.19

 友人のNさんが編集・発行する「呆報368号2013.2(4)」はつぎのような書き出しではじまっていた。

 「一月下旬、中国湖南省、長沙市。数日、とうとう一度も青空は見なかった。一度だけ太陽が浮かんだが、ガスを通しただいだい色で、まんまるかぼちゃがおぼろにかすんでいるようであった。日本でも夕映えの中に、だいだい色に輝く、平べったいかぼちゃのような美しい夕日をみることがあるが・・・両者は全然違うかぼちゃ!
 道路はどこまでも渋滞し、まるでベルト状のオープン駐車場のようである。車はすべて火山灰を浴びたばかりのようだ。『洗ってもすぐ汚れるから洗わないのね』と言ったら運転手が『毎日洗っていてこうなんだ』と笑う。何だか信じられないが、新聞はこう報じていた。
 『ゆっくりした速度で走っていて、突然スピードだしたり、減速したりする時の排気ガスは、ふだんの何倍にもなる。渋滞のとき排気するPM2.5はさらに増える。一台の乗用車が一年に排出する汚染物は自身の重量の4倍にもなる』(『長沙晩報』)」

 わたしが生まれ育った尼崎市は、阪神工業地帯の中心にあり、戦前から“煙の都”と教科書にも載せられ、東洋のマンチェスター、極東の ハンブルクなどとも目された。

 わたしは60年代のはじめに尼崎を離れ、40年ほど前から宝塚に住まいを構えているが、いまでもわたしの親族や同窓生の多くは尼崎の市民である。

 70年代になると、“煙の都”の尼崎は、大気汚染と公害の街になる。

 この間の状況は「図説 尼崎の歴史 下巻」(編集:尼崎市立地域研究史料館)に詳しいが、そのなかで「深刻化する公害問題」「『公害』から『環境』へ」などの記述(執筆はいずれも辻川 敦館長)は、当時の市民の苦悩と闘争、そして行政の対応を想起させる。特に、国道43号線上の高架道路建設反対の座り込み抗議行動は、七年間の長期に及んで国の環境行政に影響を与え、企業への規制強化に繋がって行った。しかし、「さまざまな対策がとられたとはいえ、窒素酸化物・浮遊粒子状物資等を原因とする大気汚染状況はかならずしも改善されず、市域におけるぜん息などの公害病認定患者は昭和五〇年代を通して五千人以上という高い水準を保ち続けました」(同書二二一頁)。わたしの親族のひとりも、そのころ喘息が主因で亡くなっている。

 これらの公害反対運動は、一九七六年以降、国や道路公団および大気汚染排出企業を相手どる訴訟に転化・発展し、「日本の大気汚染公害史上はじめて差し止め請求が認められた」のは大きな成果と注目されたが、日本経済の停滞につれ「自動車排ガス削減・大型車規制等の抜本的措置は必ずしも講じられず」二次提訴などが続けられたという(98年和解成立)。

 先日北京から一時帰国していた四十代前半の友人にこうした話をすると、「尼崎大気汚染訴訟」は中学の教科書にも載っていました、その後も訴訟が続いていたんですか、それにしても日本の空はわたしの小さいころからずっときれかったですよ、北京に住んで十余年、こんな澄みきった青空を見たことはありません、という話になった。

 わたしが北京五輪の前年に書いた小文につぎのような一節があった。

 「トウキョウ・オリンピックは1964年10月10日開幕、新幹線は10月1日東京―大阪間が開通している。
 わたしはこの年 はじめて訪中して、2月から4月にかけて70日ほど北京に滞在した。
 冬の北京はスモッグで覆われていた。
 昼間でも市内を馬が荷車を引いていた当時のこと、クルマは数えるほどであった。スモッグの原因は、練炭・豆炭の熱エネルギー、特に暖房には低質の石炭・粉炭が使用されていて、外出にはマスクがいるほど粉塵が舞っていた。
 楊にみどりのふくらみが見えてくると今度は西から砂塵が降りかかる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 北京市内は、西から北にかけての山なみで取り囲まれている。
 高層ビルがふえ、経済の活性化で人口が増えはじめた80年代のはじめごろから、市内の風通しが悪くなり、どんよりした灰色の日が多くなる。
 これに追い討ちをかけたのが、クルマの増加。
 88年に北京の保有台数は40万台をこえ、中秋の名月がきれいに見えない、北京の空は青くない、との認識が広まるが、この時期はまだ政府の大気汚染対策はない・・・。
 北京市では98年から大気汚染情報を毎日出しはじめた。
 なにごとも計画とその達成率の向上に関心が行くお国柄、98年を基準に毎年その成果が公表される。人民網(2007年11月2日)はつぎのように伝える。
 『北京市環境保護局は1日、10月の北京市で大気環境レベルが目標値に達した日数は26日を記録(月全体の83.9%)し、今世紀になって同期最高水準だったことを明らかにした。今年11月1日までで、大気環境レベルが『2級(良)』以上の日数は、昨年同期よりも9日多い213日(全体の69.8%)に達し、通年目標の245日まであと32日となった』
 結構なことであるが、観測地点がどこなのか。北京市には郊外の万里の長城―八達嶺までが含まれていることを思い出していただきたい」(「北京の空は青かったのか」より抜粋)。

 80年代の中葉、わたしは大阪の中小企業の会長と上海市環境局を訪問していた。同社は大気汚染監視検査機器のメーカーで、日本ではほぼ行政にもそれが行き渡って、次の市場と中国を目しての市場調査でもあった。当時の上海はまだそこまでの状況ではなかった。環境局の目下の仕事は、騒音対策、それも病院などの前ではクラクションを鳴らさないことという管理が主たる業務、自転車の大群が街中を走り回っているが、クルマも少なく環境局も開店休業に近かった。帰路ガーデンブリッジを渡ったとき、蘇州河のヘドロの悪臭に驚いた会長は通訳のZさんに話しかけた。大気汚染の発生源(工場など)を突き止めるのはタイヘンだが、汚水の発生源の探求はそれほど難しくは無い、先ず工場の廃水対策をされるよう環境局に話してほしいということだったが、Zさんは工場の規制を厳しくしたら全部つぶれますよ、日本でも経済成長のときは垂れ流しだったじゃないですかと反論、当方の気持ちは通じなかった。

 “前車の轍を踏まない”よう、日本政府も90年代に入って中国政府に工場廃水や大気汚染規制の技術や管理手法などを提供しているようであったが、企業への規制は浸透しているとは言い難い。中国でも各地で工場廃水をめぐる住民とのトラブルが多発しているが、日本の水俣病(1956年)発生時の公害反対運動のように全国的な高まりにならないのは、日本と中国のメディアの違いにもよるものであろうか。

 日本の場合、工場廃水の規制が達成されると、市民とメディアの関心は大気汚染にも注がれるようになり、四日市喘息(1961年)から光化学スモッグ(1962年)に至る過程で、その発生源の捕捉をめぐる自治体など監視側と企業とのシーソゲームが展開されてきた。このメーカーもこうした流れのなかで大気汚染監視機器の開発・製造で大気汚染防止に寄与してきていたのであった。

 ヘドロの川に鮎がもどり、スモッグの空がいまの、吸い込まれるような青空に回復したのは、日本の市民運動とそれを支えたメディアの力であり、ビジネスとしてこれを結実させた企業の技術力の成果であったということができる。

 中国の空に青空が映えるのは、いつのことになるのだろうか。

(原田 修)

【執筆者略歴】
大阪外大仏語科卒業(1957)後、中国ビジネスに取り組むこと半世紀。前半の25年は輸出入、委託加工、「大中国展」催事(主宰)など。後半の25年は対中投資、進出企業の経営管理などのアドバイザー。初訪中(1964)のあと200余回の訪中&中国を周辺諸国から観察の旅。会社役員、団体役員を歴任。数年来「市民講座」などの常連講師のほか、『中国ビジネスえとせとら』、『徒然中国』を業界紙などに連載・送信中。

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