中国面面観

あのころ・そのとき「~虚(むな)しい?中国~」

2013.06.04

 大阪造幣局の桜の通り抜けがはじまったころ、在日二十数年の初対面の中国の方にお渡ししたわたしの名刺のことからこの話がはじまる。

 わたしの名刺には「『徒然中国』通信 はらだ おさむ」と住所、メールアドレスが書かれている。この方とは初対面であるが、在上海の文字通りのわたしの“老朋友”のご子息で、上海から転送されてくるお孫さんの写真などを通じて熟知の間柄であった。

 会食後同席の日本人(この方とも初対面で名刺を差し上げていた)から、「徒然中国」を中国語としてみると「虚しい中国」という意味になるがとかれは話していた、ご存知でしたかと聞かれた。「徒然中国」を中国語で読むという発想はわたしの脳裏に浮かんだことはないが、漢字のほとんどは中国から渡来したもの、エ~ット度肝を抜かれたわたしは「中日辞典」をひっくりかえし、中国語に堪能な友人・知人にもメールで確認した。中国語「徒然―ツ・ラン」は、たしかに「(副)むだに、むなしく」とある。

 ネットでも「徒然中国」を検索してみた。

 「徒然中国留学日記」「正月徒然―中国滞在記」「徒然中国株投資日記」とわたしの前作「ひねもすちゃいな 徒然中国」がヒットした。

 わたしはこの題字を「徒然に想う中国」の意味でつかっている。もちろん兼好法師の「徒然草」の書き出しがこの題字の発想の基になっている。お読みいただいている方も、またこの名刺を手にされた日本の方もこの発想が基になっていることは「暗黙の了解事項」であろうと思うが、名刺というものは初対面の方にお渡しするもの、特に中国の方では誤解が生じやすい、これは中国語に弱いわたしにはありがたいご指摘であった。

 老朋友には毎回お届けしているこの『徒然中国』の、最新の三号分を後日ご子息に読んでいただき、感想をいただいた。すばらしい文章です、日本語の文章の題字『徒然中国』ですから、日本語の読める中国人でもこの題字は日本語としてよく理解できますとのことであったが、わたしはやはりこの名刺はまずい、「『徒然中国』通信」を削除した新しい名刺をつくることにした。

 “覆水盆に返らず”ではあるが、一月末中国の“高級知識人”北京電影(映画)大学教授の崔衛平女史(『徒然中国』其之五拾九「冬来たりなば・・・」ご参照)に差し上げたこの名刺を、彼女がなんと読み、なんと理解されたか、日本語のできない崔女史が「虚しい中国」通信を書いている「原田 修」(名刺には漢字でこう書いておいた)と記憶されているとすると、これは弱ったなぁ、と思う。いや、日中国交正常時の中国の「戦時賠償請求権の放棄」や日本の「ODA資金」などについて同女史の意見を求めた、“気に食わぬ日本人”の類と思われたかもしれないが・・・。

 わたしはいまの中国について、ときには腹立たしい気分になることもあるが、“虚しい中国”と思ったことはない。

 トウ小平の「南順講話」のあとのこの二十余年、中国経済は大きく発展し、いまやアメリカに追いつき、追い越そうとする世界の大国になった。

 しかし、三十数年前の文革直後の中国はどうであったろうか。

 華国鋒政権時代、日本に大量のプラント発注が舞い込んだことがある。

 わたしの会社にも自動車部品関連のプラントの引き合いが舞い込み、総公司副総経理を団長とする視察団が日本の工場を見学、技術者同士で綿密な打ち合わせを行い、来春さくらの咲くころ正式に調印しましょうと仮発注書を取り交わした。しかし、かれらが帰国後ほどなく、他社のプラント商談をふくめ一斉にキャンセルとなり、日本側の延べ払い提案にも応じない。キャンセルの理由も、説明もない。会社の北京事務所から当の公司の窓口にせめてメ-カ-に対する書状でもと求めたがそれにも応じない。わたしの大学の先輩になるメ-カ-の担当部長は役員から追及されて責任問題になってきていた。わたしは北京に飛んで副総経理に面談を求めた。やっとのことでアポが取れたとき、わたしは録音器を懐にしのばせて公司に赴いた。謝罪の言葉は一切なかった、国の方針による、の一言のみであった。通訳を交えたそのやりとりの録音は帰国後メ-カ-の役員に届けられ、担当部長の責任問題は回避されたが、中国とのお付き合いはしばらく見合わすと通告された。

 文革が終わって、はじめて中国の紡績関連の工場を見学したときのこと。

 自動織機は動いているが、従業員は三々五々工場の片隅にとぐろを巻いてタバコをくゆらせ、寝そべっている。糸が切れようが、油が飛んでシミができようがおかまいなし、B級品の山が次々と出来上がっていく。だれもが機械を止めて修復しようとはしない。

 わたしは工場長にこんなことでどうするんですか、と難詰した。

 かれは「四人組」のせいと、両手を広げる。

 わたしは思わず、大声を張り上げた。

 江青がここに来てオシャカの製品を作れと指示したのか、あなたのアタマが  「四人組」に毒されているのではないか、こんな生産状況ではつきあいができない、キャンセルだとドヤシつけた。

 なげやりな現場、荒んだ青年たちの行動に、わたしはどうしようもない怒りと悲しみにとらわれた。もうこんな中国にはつきあえないと「虚しい」気持ちがこみ上げてきた。わたしは中国ビジネスから足を洗おうと思った。

 前作「ひねもすちゃいな 徒然中国」に「老学者の涙」という話を載せている。少し長くなるが、その一節をご紹介したい。

 「77年の秋であったろうか、わたしは青島から上海行きの夜行寝台車に乗っていた。コンパートメントはふたりの華僑と老人(中国人)そしてわたしの4人が同室であった。上段のふたりははやばやと寝てしまい、わたしは手酌でホットウイスキーを舐めながら文庫本を読んでいた。老人もなにやら口に含みながら読書に余念がない、どうも洋書のようである。タヨリナイ英語で自己紹介しながら、ウイスキーを勧める。彼の英語もたどたどしい、見るとはなしに彼の本をのぞいて見るとドイツ語のよう、ドイツ語は話せるかと聞いてきたが、ナイン。それから差しつ差されつの、英語、中国語チャンポンの会話が始まる。

 彼は石油関連の地質学者のようであった。これから上海の国際会議に出席する、家は無錫にあった、3代続く学者の家であったがいまはもうない・・・とはなしが続く。もうどの辺だろうか、カーテンを少し開けてみるが漆黒の闇。と突然かれが外を見やりながら泣きはじめた。この暗闇のなかにも農民がいる、毛沢東も周恩来も、鄧小平もこの人民たちの幸せを願って革命をしたはずなのに、この10年の文革ですべてがダメになってしまった、わたしの教え子や部下たちは全部いなくなってしまった、わたしはもう70に近い、もう一度中国が栄光を取り戻す日を見ることが出来るだろうか。

 わたしはツタナイ英語と中国語でかれを慰め、励まさねばならなかった。

 日本は明治革命後も民主国家をつくれず、逆に中国などを侵略、敗戦ですべてを失ってしまった。しかし、日本人はいま新しい社会をつくろうと頑張っている、あなたの国もこの困難を乗り越えて必ず素晴らしい社会を作り上げますよ、きっと・・・。

 老人はわたしの手を握り締め、中国のため、あなたたち日本の方は力を貸してください、お願いしますよ、とつぶやくのであった。

 わたしは所用で南京で下車、この老学者と別れた。

 わたしはもう一度中国で仕事をしようと決意したのであった」

 「虚しい中国」は、もう、さようならである。

(原田 修)

【執筆者略歴】
 大阪外大仏語科卒業(1957)後、中国ビジネスに取り組むこと半世紀。前半の25年は輸出入、委託加工、「大中国展」催事(主宰)など。後半の25年は対中投資、進出企業の経営管理などのアドバイザー。初訪中(1964)のあと200余回の訪中&中国を周辺諸国から観察の旅。会社役員、団体役員を歴任。数年来「市民講座」などの常連講師のほか、『中国ビジネスえとせとら』、『徒然中国』を業界紙などに連載・送信中。

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