中国面面観

あのころ・そのとき「~ならぬことは、ならぬ~」

2013.07.05

 NHKの大河ドラマ「八重の桜」は戊辰戦争も終わって、舞台は会津に移る。
 その歴史的解釈にはいろんな見方があろうが、「ならぬことは、ならぬ」とは重いことばである。

 昨秋マイルーツとは直接の関係はないが、豊中市(大阪近郊)の「原田村」の領主のひとり・旗本鈴木兵九郎(三千石)のことをすこし調べた。三代目までは神田川に面した駿河台の鈴木町(昭和八年までこの呼称があった)に数百坪の屋敷があったが、そのあと数十年の所在は不明で、文政五年(一八〇八)に駿河台の淡路坂を上りきった角地に七六二坪の屋敷を見出す(『江戸城下武家屋敷名鑑』幕府普請奉行編/原書房)。この不明の数十年、江戸の武家屋敷をくまなく探求、番町(旗本の番士が多く居住していた)に領主の通称のひとつに該当する、大名屋敷と馬場に囲まれた小さな角地(屋敷)を見つけたが、それと確定する史料を見出すことはできなかった。しかし、この番町の、旗本軍団敷地あとの大部分が、いまの靖国神社の境内になっていることを知り、歴史の重層に触れた思いがした。

 靖国神社の前身は、東京招魂社である。
 いまも山口県を筆頭に鹿児島県など幕末の“志士”を輩出した諸県に招魂社が数多くあるようだが、九段の招魂社も戊辰戦争など“官軍”の戦没者を祭るために創建された。敗れた“賊軍”やその後明治政府に反旗を翻した西郷隆盛などは対象外である。明治12年に靖国神社と改称され今日に至るが,“侵略戦争”の筆頭・A級戦犯を合祀したことで問題をさらに複雑化させている。

 「八重の桜」はドラマであるから、会津攻防戦における主人公・八重の奮闘が主題になるのは当然の成り行きであるが、“官軍”は敗残兵の屍体の処理を認めず、鳥獣のなすがままに処した。見るに見かねた百姓たちが埋葬したところこれを咎められ、庄屋が投獄の憂き目にあったという。「島原の乱」でもそうだが、“反逆者”に対するこうした残虐な“見せしめ”は、のちの“三光作戦”にも通じるものがある。加害者はすぐに忘れるが、被害を受けたものの“怨”は心の奥底にいつまでも残り、伝承される。会津の人たちの心の奥底に残るこの“怨”が、折に触れ噴き出すのである。
 この会津戦争が終わって百二十年ほど経ったころ、山口県の萩市から会津若松市に姉妹都市提携のプロポーズがあった。もう仲良くしましょうとの申し入れだが、会津としてはまだ百二十年、はい、そうですかということにはならなかった。「3・11」のとき、萩市から義捐金と支援物資が会津若松市に届けられた。震災処理が少し落ち着いたころ、市長が萩市に出かけるというので記者たちが騒いだ。仲直りですか、との問いかけに、市長は「震災見舞いの返礼」に行くだけと答えたという。そして、そのことがまた話題になったと、現地へボランティアに行った人から洩れ伝え聞いた。

 1983年はわたしが日中貿易から、対中投資コンサルタントに業種転換した思い出の年である。ちょうど「大阪城築城四百年」とかで、大阪府市や財界などが連携して「大阪21世紀協会」を設立、その記念行事のひとつとして“御堂筋パレード”が実施されることになった。わたしの所属した団体にも主催者側から友好都市上海からの参加要請依頼があり、上海歌舞団と幹部一行十数名が来日することになった。その最終決定の理事会はシャンシャンで終わるはずであったが、ひとりの理事の反対意見で大荒れになった。「大阪城築城四百年」記念とはなにごとであるか、秀吉の朝鮮侵略をなんと理解するのか。これを認めることは、中国に対する侵略行為をわが団体が容認することにも繋がると云々。会議は沸騰、対韓国と中国では問題が違うとか、四百年前のことまで問題にするのか‐未来志向で行こうではないか、さらには主催者側にこの築城四百年記念を削除するよう申し入れるべしなど議論は百出。最後は多数決で原案どおり可決されたが、反対意見の理事との確執は後々まで残った。
 11月3日、花車に先導された上海歌舞団の舞姫たちの楚々とした踊りと行進は沿道を埋め尽くした群集の歓呼を浴びた。そして、この“御堂筋パレード”はその後25年の長きにわたって秋の大阪の風物詩として市民に親しまれる催事となった。わたしどもの団体で議論が百出した「大阪城築城四百年」記念のタイトルは、第二年度目から(静かに)消えている。
 こうした論議の“副産物”とはいえないが、それから数年後、在阪の韓国人グループを中心に古代からの日韓交流を見つめなおそうという動きが出てきて、「天王寺ワッソ」として結実した。“ワッソ”とは古ハングルで“ワッショイ”を意味する由。聖徳太子の時代、国の“外交賓館”であった四天王寺と難波津を結ぶゆかりの街々を、当時の衣装をまとった日韓の高官や民衆が練り歩くというイベントであった。後日談になるが、この催事の準備段階で知己を得た韓国の経済人と中韓国交正常化前後の「中韓経済交流」促進のお手伝いをしたことがある。

 「八重の桜」からずいぶんと話が飛躍してしまったが、過ぎたる日々を思い出すたびに昨今の「日中」「日韓」の不協和音が気になる。
 中国や韓国の人々は「靖国」とは何たるかも知らずに騒いでいると日本では思われているが、“党籍”を剥奪されてまで靖国に“参詣”してその実態を調査したひともいる。そのひとりが「長城万里図」や「上海の朝」などの作者・周而復である。かれは抗日戦争時代ジャーナリストとして活躍、解放後作家・書道家として日本とも交流・知己も多く、中日友好協会副会長、文革後は文部次官にも就任するが、85年の訪日時に靖国に“参拝”、“党籍”剥奪処分とあいなった。のち、「長城万里図」執筆などの調査のためとの“釈明”が認められ、復権した。
 04年4月の清明節に、関西日中関係学会では1月に逝去(享年90歳)された周而復先生を偲ぶ講演とTVドラマ「上海の朝」(本邦初上映)の夕べを開催した。すでに「長城万里図」第一巻(上、下)は邦訳・刊行されていたが、21世紀日中翻訳会の代表・伊井健一郎姫路獨協大学教授(当時)や監修の竹内実京都大学名誉教授も出席、故人の業績を偲んだ。この大河小説は日中戦争のすべての局面を、関係する重要人物~毛沢東から東条英機までも登場させて描きつくしている。すでに第五巻12冊まで翻訳刊行され、今年中に第六巻3冊が刊行、完成の運びとなる由。これも大河小説に匹敵する大事業である。

 テレビでは「八重の桜」の会津篇はもう少し続くだろうが、死者はもう甦ることはない。しかし、江戸二百五十年の社会はなんであったのか、そして大政奉還・王政復古は日本の「夜明け前」にはならなかったことも、もう少し考えてみたい。

 また暑い日がやってくる。
 原点をわきまえないひとたちが蠢動、妄動する季節である。
 だが、ならぬことは、ならぬともう一度考えつくしてほしいものである。

(原田 修)

【執筆者略歴】
 大阪外大仏語科卒業(1957)後、中国ビジネスに取り組むこと半世紀。前半の25年は輸出入、委託加工、「大中国展」催事(主宰)など。後半の25年は対中投資、進出企業の経営管理などのアドバイザー。初訪中(1964)のあと200余回の訪中&中国を周辺諸国から観察の旅。会社役員、団体役員を歴任。数年来「市民講座」などの常連講師のほか、『中国ビジネスえとせとら』、『徒然中国』を業界紙などに連載・送信中。

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