中国面面観

あのころ・そのとき「~春の海~」

2013.12.30

 L先生は、どうされているだろうかと、ふと、思った。

 駅前のコンサートホールで、いま、C嬢のフルートリサイタルがはじまろうとしていた。プログラムの二番目に、宮城道雄の“春の海”があった。電子チェンバロン使用とある、はて?聞き慣れぬ楽器だが、宮城道雄のあの琴の音に代わりうるのか・・・。

 上海万博のとき、L先生の教え子、といってもわたしより少し年上の、元上海の都市計画業務のCさんと会食のとき、先生の近況をお尋ねした。軽い脳梗塞にかかられたが、自宅で静養されている、先週お見舞いに伺ったがお元気であった、とのことであった。

 もう何年前になるだろうか・・・、国際会議で来阪中のL先生からの伝言と人を介して宮城道雄の“春の海”のCD購入を依頼されたのは。

阪大の大学院に留学中の方と大阪や神戸のレコードショップに電話を掛けまくった。まだパソコンもさほど普及していない三十年ほどむかしのことである。二日ほどの探索?のあと、やっと心斎橋筋商店街で発見、先生にお届けして、夕食をご馳走になった。

 ここまで書いてきて、・・・。

 むかし、このCD購入のいきさつを書いたような気がした。

 検索して調べたら『徒然中国』其之弐に、このショッピングのことを書いていた。90年代の初めのことのようだ。

 「先生は宮城道雄のこの名曲に深い愛着を持っておられたのであるが、紅衛兵たちの暴挙からこのレコードは守ることが出来なかった、そのCDはいま手に入らないでしょうか、というお願いであるとか」とそのいきさつを記している。

 過ぎ去りし思い出であるが、C嬢の演奏は終わった。

 チェンバロンはどうでしたか、フルートをすこし尺八ぽく吹いてみましたがと、彼女は話しかけていたが、わたしは先生との思い出にひたっていた。

 80年代の半ば、大阪と上海の都市計画関係の専門家が共同で上海の街道改造考察をしたことがある。中国建築学会大御所のL先生がこのプロジェクトチームの最高顧問に就かれていた。わたしは上海の関係部門とこの考察小組の立ち上げやそのアレンジを担当、現場の考察にはあまり関与しなかったが二年間、数回にわたる日本の専門家チームの訪中には加わっていた。会食の都度L先生は顔を出されて、日中双方のメンバーにいろいろと話しかけられていた。中国側のメンバーはすべて先生の愛弟子か、その孫弟子であった。文革中は全員が“下放”さされていたが、技術系の専門家であるみなさんは文系に比べると比較的優位な、“専門性”を生かした地方の部門で仕事をされていたようであった。

 文革の初動期、紅衛兵たちがL先生宅に押しかけてきたとき、先生は宮城道雄のレコードのほかに浮世絵も没収されておられたが、これは木版刷りだからいずれ同類のものはどこかにあるだろうと達観されていた。だれかがそれで・・・とお聞きすると、文革終結後、国際会議で訪米されたとき、アメリカの知人が同じ図柄ではないがと探し出してくれたとか・・・。そんな話で盛り上がった、共同考察の夕食会であった。

 Cさんが、黄浦江の架橋問題で悩んでおられる話をお聞きしたのもそのような食事会のときであった。

 そのころ、上海の市内を貫流する黄浦江にはまだ橋が架かっていなかった。

 河口から上流の郊外・松江地区まで3千トン級の貨物船が往来するので架橋できないのだという。コロンブスの卵ではないが、螺旋状の橋にすればいい、大阪の南港大橋や広島の音戸大橋はこの方式で解決していますよ、と日本へご招待することになった。“百聞は一見に如かず”、この視察がヒントになっていまの南浦大橋の建設となり、わたしたちは開通前に招待されてこの橋の渡り初め、好きなところで停車して、眼下の黄浦江や両岸の光景をカメラに収めたものだった。鄧小平揮毫の「南浦大橋」のプレートはすでに掲げられていたが、通行はまだ工事関係者のみであった。

 八十年代 「北京愛国」「上海出国」・・・と揶揄されて海外へ飛び出した上海の「就学生」は語学習得よりアルバイトに追われ、それでも小銭をためて帰国すると人脈を生かして「毛生え薬-101」や「痩せる石鹸」の販売などで金蔓を増やし、起業する人や株式投資に走る人も出てきた。なかには不動産投資で政府の役人とくるんで後ろに手が回った人もいたが、九十年代も後半になると帰国留学生優遇のベンチャービジネス支援策が実施されることになる。「ハイ・グイ」=海帰、発音が同じなので“海亀”族と称されるが、他人のメシを食って来た、こうした人たちは良きにつけ、悪しきにつけ、自分を客観視することができる。ことばを換えれば、“ひとのふり見て、わがふり直す”ことができるひとたちである。

 わたしはロシアには一度しか行っていない、それも極東ロシアを一週間ほどで廻ったに過ぎない。ゴルバチョフが軟禁される直前のこと、その一事をもってとやかく言うことははばかれるが、それにしてもこのときの食事も、ホテルも中国に比べても貧弱であった。

 いま、司馬遼太郎の四十年ほどむかしの訪中記『長安から北京へ』(中公文庫、改版8刷)をひもといている。

 かれはわたしより二十年ほどむかしに極東ロシアを巡り、その二年後はじめて中国に足を踏み入れたのであるが、三泊四日宿泊した西安の「人民大廈」についてつぎのような感想を綴っている。

 「夜、ホテルに帰ってくると、気持ちが暗くなった。廊下も部屋も暗く、そのロシア好みの暗さは鉛の空気でも吸っているように重苦しかった」

 八十年代から九十年代の初めにかけて、わたしもこのホテルになんどか宿泊している。

 「セメント塗りの床の上に、琺瑯びきの大きな浴槽が置いてある。大きくて深すぎるそれは、湯を溜めるだけでも大変で、その上、床からよじのぼるのに、大げさにいえば浴槽のふちをつかんで機械体操の要領で―私はロシア人と違って背丈が小さいために―せりあげる気分でやらねばならず、それほどにふちが高々としていた」

 中ソ蜜月時代には革命烈士の子弟(でない?人もいたが)や党の幹部候補生たちは、“社会主義の先達”ソ連や東欧の社会主義国に留学した。ほどなく中ソが対立、“先進技術”の導入はご破算になったが、「留学組」は傷つくことなく「高い浴槽」に身を潜めたまま改革開放の権力の中枢におさまっていた。さすがに五カ年計画はいつとはなしに消えてしまったが、中共党指導部が運用する「社会主義市場経済」のその根幹には、毒草が生え茂って来ている。身銭を切って留学したことのないこのひとたちには、“唯我独尊” 「親方五星紅旗」の発想しかないのであろうが、「就学生」出身の実業家より品性に欠けるひとが多いように思えるのである・・・。

 いま、「宮城道雄」「春の海」で検索、ヒットしたユーチューブで♪春の海♪の琴の音の調べに耳を傾けている。

 たゆとう波がしらも、いつしか海流に巻き込まれて流れ去っていくが、春の海はいつまでも波静かにただよっているようである。

(原田 修)

【執筆者略歴】
 大阪外大仏語科卒業(1957)後、中国ビジネスに取り組むこと半世紀。前半の25年は輸出入、委託加工、「大中国展」催事(主宰)など。後半の25年は対中投資、進出企業の経営管理などのアドバイザー。初訪中(1964)のあと200余回の訪中&中国を周辺諸国から観察の旅。会社役員、団体役員を歴任。数年来「市民講座」などの常連講師のほか、『中国ビジネスえとせとら』、『徒然中国』を業界紙などに連載・送信中。

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