中国面面観

あのころ・そのとき「~ネジをかむ~」

2014.02.19

 『日経中国網』に村山 宏編集委員が執筆の「日本人小声説」というコラムがある。不定期だが毎月一~二本執筆・掲載されており、そのなかで「中国の“愛国青年”は半沢直樹に学ぶべき」(2013年11月18日)という一文には心ひかれた。

 昨年の日本のテレビ番組で視聴率のトップを占めた“半沢直樹”(やられたら、倍返し)を主題に据えたその着眼点とイントロは、一般読者の好奇心をそそる巧みな筆さばきだが、そこでとりあげられている日本の中小企業のネジ、ボルト、スプリングや工具などが中国の市場にとってどれほど必要不可欠のものかと読者の関心を引きつけている。

 ずいぶんとむかしばなしになるが、いまから半世紀前の1963年10月、北京で開催された日本工業展覧会の出品物のほとんどはココムの規制対象品で、そのころ“竹のカーテン”で包囲されていた中国に対して日本の通産省(当時)から“持ち帰り”条件で認可されたものであった。あとから聞いた話だが、ある精密機械の出品者は日本に持って帰ればいいのでしょうと中国の技術者の要望に応じてその機械を解体して詳しく技術説明したという。かれは中国側から深く感謝され、閉会後半月ほど中国各地の関連工場の見学(兼観光)を“国賓待遇”で案内され、歓迎されたという。かれの話では、その機械の構造や使用されている部品を中国の技術者に説明したところで、そう簡単には作れるものではないので、日本の政府が“持ち帰り”などヘンな条件をつけずに中国に売却するか提供する方がよほど出品者にとっては身軽だったのに、ということであった(サムライはいつの世にもいる)。

 80年代の末から90年代の初めにかけて、日本の精密医療器械がまず北京や上海などの大病院に設置され、その効能のすばらしさに中国の各地から購入の要望が関連の貿易公司に殺到した。まだ外貨準備の乏しい当時のこと、中国国内の病院のすべての要望に応えることが出来ない中国政府は、追加購入を条件にその本社工場の見学を申し込んだ。会社内部では工場と貿易部門との間でいくばくかのやりとりがあったらしいが、応じるとすれば完全にオープンでしっかりと見ていただこうということになった。

 詳細は忘れたが、わたしも工場の見学に立会い、東京の貿易部門との商談も傍聴した。一行は十数名であったか、工場見学は三チームほどに分かれて実施されたが、本社の工場長と主任技術者が案内するチームはいつのまにか中国側は団長と通訳のみに。中国の技術者は三々五々と分散して、設置された製造ラインの機械に貼りつき、写真を撮り、機械のメーカー名を筆記している。予定時間をはるかに過ぎても工場から離れようとしないので、工場長は団長を招いて先に会議室にもどり、休憩することになった。
 やおら顔ぶれもそろい、おしぼりと茶菓の接待などがあって小憩のあと、工場長の挨拶があった。

 いくぶん皮肉交じりであったが、みなさん方の熱心な見学に感心しましたとジャブを入れたあと、工場長からこの製品開発のいきさつの話になった。

 基本設計の導入はアメリカのD社からで、技術者がひとり来日(かれの報酬は当時の日本人の平均の十数倍)、芦屋の住宅に三年間滞在、週に三日ほど京都の本社に会社のクルマで出勤したが、詳細設計などに関わる質問にはそれは契約条項に無いと一切答えることはなかった。会社としては協力工場の技術力を結集して自力で周辺技術を開発、この製品の完成を図る以外に方法は無かった。苦労したが、技術の開発は他力に依存することは出来ない。いまではアメリカのD社の技術レベルを上回り、逆に周辺の製造技術はD社に売るようになっている。モノをつくるのに、近道は無い。みなさんがたの研鑽をお願いしたいという工場長の言葉に、団長は短い答礼を述べて席を立った。

 「あのとき・あのころ 第二部」(はらだおさむの体感的日中経済交流小史)でもふれているが、日本ミシン部品訪中団が派遣されたのは86年4月からであった(日本ミシンタイムスと共催)。以後今世紀のはじめまで11回実施されている。その都度参加部品メーカーは異なるが、この交流はいまの日中ミシン団体主催の展示会への相互参加などにつながっている。ミシンメーカーの中国進出は80年代後半からであるが、部品メーカーは本体メーカーと不即不離の関係もあり、独自の行動が取りにくい側面もあった。

 表題の「ネジをかむ」現場を見たのは、80年代末の第3回訪中団であったろうか。天津のミシン工場を見学のとき、団員のひとりが部品箱のネジをつかんで口に入れ、「まだやなぁ、これはあまい」とつぶやかれた。わたしはなんのことかわからないのでお聞きすると「ネジのヤキがあまいのや」とのこと。つまり「焼入れ」が不十分という意味らしい。ミシンのネジは自動車の部品と違って何度も締めたり緩めたりするので、硬いだけではダメ、柔らかすぎてもダメ、小さい部品やけどむつかしいもんでっせ、と教えていただいた。

 九十年代のはじめまで中国のミシンメーカーは家庭用ミシンの製造が主力であった。ミシンは嫁入り支度の三種の神器の一つであったが、衣料の大量生産・大量販売が中国社会でも定着し始めると、工業ミシンへの生産転換がはじまった。中国ミシン協会(当時)とわたしたち日本ミシン部品訪中団との接触・交流が深まり、工場見学が技術交流会にもなり、技術導入の要請などに変わってきた。

 90年代も後半に入ると、工業用ミシンの部品のなかで、中国で最も技術導入したいものとしてネジがあげられるようになってきた。わたしもお手伝いをして西安や上海の工業用ミシンメーカーとの技術交流や合作商談などもしたが、その関連で、日本のネジメーカーの金属熱処理の工場を拝見する機会があった。熱処理の炉は上海の新設のラインと同じようにコンピューター管理であったが、現場の監督者の話では、いくらコンピューター管理でも熱処理は微妙なもので炎の動きと温度計が微妙にズレルこともある。それを見ながら調整するのが人間の目であり、熟練度である。この現場では年末の30日に火を落として、正月4日に炉を点火、それから360余日の終日、火を落とすことなく24時間交代で炎をチェックしている、ということであった。上海の熱処理工場では月曜日の朝点火して、金曜日の夕方5時に火を落としている。炉が万遍なく熱せられているのは週2~3日くらいか、これでは熱処理をうまくコントロールできないのではないかと思えた。わたしはネジメーカーの社長にいまの状況では日本からネジを輸出する方が製品の品質を保障できる、中国の労務管理が機械的に労働法遵守を呼びかけているかぎり、品質的に均等なネジを市場に供給することは出来ないだろうと述べて、対中投資は時期尚早とアドバイスした。

 それから十余年、いま状況がどのようになっているかは知らない。

 日経の村山さんは、日本が二十余年前、バブル破綻のなかでに演じた銀行の実態をふまえて、中国の“愛国青年”に訴えている。中国の銀行には半沢直樹のような人間が必要なんだ、不動産と国有企業への融資を優先するのではなく、中国の中小企業を育成、その成長を支援する銀行マンが必要なんだ、“愛国青年”よ、中国の銀行に入って中小企業を育成するためにがんばれ、中国の半沢直樹になれ!と。

 わたしは業務から離れて十余年、いまの経済の実態は承知しないが、日本のバブル崩壊時、不動産投資の失敗で銀行の合併が進捗、その損失の穴埋めのため低金利政策が施行され、国民にそのシワ寄せが来ていることだけはわかる。

 中国も日本も、政治の失敗を国民に転嫁させるようなことはさせてはならないと老婆心ながら思う次第である。

(原田 修)

【執筆者略歴】
 大阪外大仏語科卒業(1957)後、中国ビジネスに取り組むこと半世紀。前半の25年は輸出入、委託加工、「大中国展」催事(主宰)など。後半の25年は対中投資、進出企業の経営管理などのアドバイザー。初訪中(1964)のあと200余回の訪中&中国を周辺諸国から観察の旅。会社役員、団体役員を歴任。数年来「市民講座」などの常連講師のほか、『中国ビジネスえとせとら』、『徒然中国』を業界紙などに連載・送信中。

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