中国面面観

あのころ・そのとき「~アナがない?!~」

2014.07.17

 衣料品量販店で、カラーのステテコを買った。
 帰宅後、開封すると、アナがない・・・電話で問い合わせする、商品名は 「グラフィックステテコ」。従来タイプにはアナがありますが、これにはポケットがついています・・・質問の答えにはなっていない。要は外出でも可といいたいのだろうが、世代によって生活習慣が変わってしまっているのだろうか。そういえば、駅のトイレなどでもズボンを下ろして用を足している青年も見かけるが、これって、幼年時代のママさんのシツケがそのまま身についてしまっているのか・・・開封されていても、ご持参いただければ交換させていただきますがとの電話を切って、このメイドインチャイナを見つめた。

 改革開放以前の日中貿易で、「来料加工」という委託加工形式の取引があった。「来様加工」という形式もあったが、これは見本の提供のみ、前者は材料提供の委託加工で服装関係では生地からボタンやファスナーなどの付属品なども提供した。なぜか知らぬが現地では頻繁に付属品が少なくなって、貿易公司の担当者から追加の要望がしばしば、平身低頭の方もときにはお目にかかったが、無いものは無いで押し切られることも多かった。
 80年代に入って、委託加工の現場にも日本からの常駐者が指導・監督にあたり、90年代のはじめにはそれが合弁企業に発展して、対中投資を押し上げる。
 小島正憲さんの最近のメール通信に「先発か、次発か、後発か」との一文があった。ご自身の体験から「次発」の中国では“大儲け”したが、先発の他地域では失敗したと、その海外投資の体験談が綴られている。
 九十年代のなかごろだったか、武漢の長江沿いにあった小島さんの関係する工場や〇七年には中朝露国境の琿春で、操業中の同社服装工場を見学したことがある。そしていま、そのむかし「先発」で失敗したミャンマーやパングラディシュなどでの再チャレンジが語られている。
 「失敗は成功のもと」、「企業は人なり」ということばもある。
 委託加工から出発して合弁企業で成功された方もあり、韓国などからの撤退で苦労されて中国で花を咲かせた方もある。

 仕事の現場から離れて十数年、いまはどうか知らないが、むかし“渡り鳥産業”といわれた労働集約型業種に手袋があった。その主産地の香川県の行政組織のなかで、地場産業の発展のため世界各地の労働事情の調査をしている部門(人)があり、中国⇒ベトナム⇒西アジア⇒アフリカと渡り鳥産業の展開(見通し)を伺ったことがある。 労働集約型産業は手袋や服装産業に限らない、インテリア業種でも十年ほど前からベトナムへ上海の合弁企業の技術者や管理者(いずれも中国人)を出張させ、その調査報告を日本の本社で判断して、現地への進出や技術移転の検討に活用されていた企業もあった。

 Mコーポレーションは、中国との合弁企業(外資)をはじめて上海証券市場のB株、ついでA株に上場させた企業である。
 以下は浙江省平湖市にある同工場団地を訪れたわたしの訪問記の書き出しである(『上海経済交流』66号・2002年4月、<おじゃまします 上海の日系企業>37)。

  2001年9月18日、ビュイックの新車は流れるように、上海の郊外を走っていた。
  カ-テレビが一週間前の、ニューヨークの同時テロで崩壊するビルを映し出し、キャスターのコメントが続いている。
  「これでアメリカの景気はどうなるかなあ」
  携帯電話の受信ヘッドホーンをかけたL総裁が、ハンドルを握ったまま、後部座席のG公認会計士(日本人)に声をかける。

 L総裁はまだ39才の青年実業家、83年21才のとき人民元五百元で起業、従業員23名のスタートであった。90年9月、韓国から撤退したM企業と出会い、その製造能力と納期厳守を見込まれて提携、いまでは上海から100キロ離れた浙江省平湖市に東京ドームの約4.5倍の敷地で5工場、世界の有名ブランドの服装品を年間2800万枚生産している。
 工場建屋(85mx200m)内には日本のミシンや縫製設備がレイアウトされ、日本の技術者が指導・管理にあたっていた。
 敷地内の、ホテルかと見まがうビルは日本の技術者たちの宿舎であり、食堂(和洋中のバイキング)はもちろん、プールやアスレチックルームなども用意され、長期滞在にも配慮されていた。
 五工場のひとつは、特殊印刷工場であった。
警備員のモニター管理のもと、銀行の小切手、預金通帳、航空券、EMS送り状などが印刷されていた。
 これがL総裁の経営多角化への第一段階になるのだが、その後の経緯を瞥見すると服装事業はのちにMコーポレーションに譲渡して、製紙業、自動車産業にも触手を伸ばし、いまは地元の九龍山のリゾート開発に注力中とか。まだ50歳をこえたばかりの実業家、中国経済の発展とともに歩みつづけておられるようである。

 誕生月を迎えて、家電量販店や取引銀行からバースデープレゼントが届いた。  いずれもが縫製がらみの商品であるが、すべてメイドインチャイナ(で納得!?)。
 経済団体の相談窓口では、中国からの撤退案件が多いと耳にする昨今だが、さてさて、どうであろうか、従業員に占拠されたままの外資企業もあるやとも耳にする。行きはよい良い、帰りは怖い・・・撤退の実務処理はタイヘンなことである。

 わたしが84年から設立のお手伝いをした上海での日系合弁製造企業の第一号は、契約から操業まで二年半を要したため、その八年目に中国側から最低五年の契約期限の延長、十年でも可との提案があった。操業五年目で累積赤字を解消、契約満了時には投資総額の回収は数十%と見込まれたが、日本側は契約どおりの十年での解散を主張、清算処理に移った。わたしはその段階では直接タッチしていなかったので詳細は不明だが、簿価ではゼロの設備の残存価値をどう評価するかということが問題点であったらしい。最終的には3年ほど後の国際入札で台湾企業が落札、その分配金とこれまでの配当金合計は出資額(現物出資)に二十パーセントほど及ばなかったそうだが(製品輸入の販売利益はプラスアルファ)、昨今耳にする撤退課題からみると、三段階評価の「良」とすべきだろうか・・・。
 消息筋によると、その設備は2~3年後に台湾企業から中国の個人(元従業員)に転売され、その工場は十余年前立ち退きになって(いま跡地には立派なホテルが・・・)上海の郊外に移転、設備もいまだ順調に稼動中とか・・・。これは中古とはいえメンテさえ怠らねば立派に稼動、カネを生み出す設備で「吉」と出たが、労働集約型企業の撤退は、カネメのものが少ないだけに、その処理は大変なようである。

 中国語で輸出は“出口”というが、出る口、アナがなければどうするか。
 “没法子(メイファーズ)とギブアップするのか、青年のように下ろして用を足すのか。企業の撤退は、穴のないステテコのようにはいくまいが、トコトン頑張って解決策を見つけねばなるまい。先人の事例から教訓を導き出すことが先決であろう。

 ポケットがついていても、わたしはむかしの中国の農夫のようにスネを出したこのスタイルでは、外には出れない。ものは試しと、湯上りに着用してみた。上にTシャツを着れば、これは夏のパジャマとしてなんとかいけそうだ・・・。

 今号はなんとも、タイソウな買い物の始末記とあいなった(ジ・エンド)。

(原田 修)

【執筆者略歴】
 大阪外大仏語科卒業(1957)後、中国ビジネスに取り組むこと半世紀。前半の25年は輸出入、委託加工、「大中国展」催事(主宰)など。後半の25年は対中投資、進出企業の経営管理などのアドバイザー。初訪中(1964)のあと200余回の訪中&中国を周辺諸国から観察の旅。会社役員、団体役員を歴任。数年来「市民講座」などの常連講師のほか、『中国ビジネスえとせとら』、『徒然中国』を業界紙などに連載・送信中。

中国株取引のリスク
株価や為替の変動等により損失が生じるおそれがあります。
中国株取引の手数料について
中国株の手数料は、国内手数料、現地手数料、為替手数料と3種類の手数料があり、このスペースに表示するのが難しいため、詳細は中国株の「手数料とリスクについて」でご確認ください。
中国株は、クーリング・オフの対象にはなりません。
詳しくは手数料とリスクについてをご覧ください。